19世紀に入り、精油はより科学的なものに
19世紀には、多くのエッセンス類がそれまでよりも科学的に研究されました。
1882年に初版が刊行されたウィリアム・ウィットラの著書『薬用物質(マテリア・メデイカ)』には、薬局方諸宗のエッセンスが22種類、未所収のものが一種類記載されています。
薬局方にあるエッセンスとしては、カモミール・シナモン・ジュニパー・ラベンダー・レモン・ペパーミント・ローズマリーが含まれていました。
この研究は主として化学者と薬草学者の手で進められてきましたが、これに着手したのは19世紀の末ごろのカデアックとムニエのようなフランス人や、さらに下ってイタリアのガッティーとカヨラのような医師たちでした。
1887年に、シャンベルランは多くの精油の蒸気の消毒力についての価値の高い研究の成果を世に問うなど、19世紀の間に香水産業は着実に大きく成長しました。
当時、香水はほとんどすべて自然のエッセンスで製造されていたため、人々は精油を作るための新しい植物を探し求め、南フランスのグラースの周囲の地域で植物を栽培し、エッセンスを抽出するための世界的な大中心地となって今日に及んでいます。
香水産業が成長していくとともに、グラースにあるいくつかの会社は自社のエッセンスの新しい応用の仕方を探求し始めましたが、こうした会社の一つにガットフォセの会社がありました。
アロマテラピー(芳香療法)の誕生
1931年ごろ、フランスの化学者ルネ=モーリス・ガットフォセは『アロマテラピー(芳香療法)』という言葉を作りました。
ガットフォセは、実験中にやけどを負ってしまうのですが、たまたま近くにあったラベンダー精油をかけたところやけどが急速に治癒したことから、精油の治療効果に対する研究を行うようになりました。
ガットフォセが作った『アロマテラピー』という言葉がはじめて登場するのは、たぶんガットフォセが書いた次の一文ではないかと思います。
「フランスの香粧品化学者たちは、自然の複合体をこの場合に壊すことなく完全な建設ユニットとして活用すべきだということに関心を寄せている。
もしそうなれば、皮膚病の療法は『芳香療法(アロマテラピー)』、すなわち芳香物質を用いる療法に発展していくであろう。この研究分野は、その探究に着手した人々に巨大な展望を開いている。」
ガットフォセはここで、自然の物質は全体的な純粋な形で使うべきであるという自然療法家の基本的な教義の一つをオウム返しにしています。
これは化学者としては珍しい視点ですが、ガットフォセはいろいろな実験から、精油の個々の成分はその全体を含むエッセンスほど有効でないことを、すなわち「全体はその部分の総和よりも大きい」ということを発見していたのです。
1928年、ガットフォセは最初の著書『芳香療法(アロマテラピー)』を出しました。
それに引き続いて、ガットフォセは精油を用いる療法に広く関連する数点の科学論文および何冊かの書物を世に問います。
この著書は人々の関心を非常に集めましたが、第二次世界大戦のせいでその熱はすっかりといってよいほど冷めてしまいました。
戦後のフランスでの研究は、ガットフォセの会社自体の研究も含めて、芳香療法の原理を大部分忘れてしまったかに見えます。
しかし、すべてがすべて忘却の淵に沈んでしまったわけではありません。
もう一人、別のフランス人で今度は医師ですが、この人物が長年にわたってこの技術を再建するために努力し続けています。
アロマテラピーの巨匠ジャン・バルネ博士
医学博士ジャン・バルネは、薬用植物を治療に使うことにずっと関心を寄せてきましたが、ガットフォセの著書に示唆されてのことでしょうが、治療にエッセンス類を使用しはじめました。
バルネ博士は、第二次世界大戦にて従軍医師として芳香植物を治療として用いたところ顕著な効果をあげたため、ガットフォセと同じようにこれが巨大な可能性を秘めた療法だと気が付きました。
それ以来、バルネ博士は多くの症状の治療にエッセンスを使っています。博士は数多くの論文を発表し、さらに1968年に、はじめて著書『芳香療法(アロマテラピー)』を出しました。
現在、芳香療法がはっきりした資格のある療法として世に認められているのは、まったくといってよいほどバルネのこの著作のおかげです。
イタリアも、芳香療法の分野で注目すべき人々を何人か生んでいます。1920年代と1930年代とにそれぞれ研究を行ったガッティー博士とカヨラ博士の名前は、特に言及に値します。
両博士の業績は、製油の薬としての特性、心理面への特性からそれらをスキンケアに使う方法にも及ぶものです。
また、ミラノの植物誘導体研究所所長のパオロ・ロベスティーは、近年、芳香療法の価値の高い多くの貢献を行っています。ロベスティーの業績の大半は、イタリア固有のかんきつ類、ベルガモット・レモン・オレンジの各精油ならびにそれぞれの脱テルペン体に関するものです。
バルネ博士の手法を受け継いだモーリー夫人
バルネ博士がエッセンスの研究をしていたのとほぼ同じ時期に、モーリー夫人も博士と同様な、しかしいっそう正統的でない研究を進めていました。
モーリー夫人は医師ではなく生化学者だったので、エッセンス類を内用するように支持することには確信がもてませんでした。
夫人の関心は医学面だけに限られるものではなく、化粧の分野にも及びました。夫人は、治療上でもまた化粧の目的にも役立つ外用の方法を探究したのでした。
より科学的なガットフォセの手法を受け継いだ夫人は、マッサージに基づく医粧療法(メディコ・コスメテイツク・セラピー)の基礎を作り、芳香物質を肉体面、精神面に、また化粧の面に働かせる方法を徹底的に研究しました。
1961年、何点かの論文を発表した夫人は、さらに『大切なもの――若々しさ(ル・キャピタル――ジュネス)』という本を著しました。
1962年に、モーリー夫人は自然スキンケア方の分野での寄与に対して美容学・化粧品学国際賞(シデスコ賞)を授与されましたが、古代インド・中国・エジプトについての知識に基づくところが大きい夫人のこの著書が、夫人のこの方面への貢献とそれが伝えるメッセージをはっきり実証しました。
この書物が刊行されたことについて述べたある記事は、こう指摘しています。
「この分野の知識を主として探求しているフランス・イタリア両国の研究者たちは、少なくとも人間の肉体というものを、多かれ少なかれ『試験管(イン・ピトロ)』のテストの単なる代替物とみなし続ける人々よりは想像力が豊かである。」
自身が負ったやけどが、ラベンダー精油のおかげで急速に治癒したことを受けて精油の研究を初め、1931年ごろに『アロマテラピー』という言葉を初めて作りました。
なお、アロマテラピーとは「アロマ」(芳香)と「テラピー」(療法)の2つの言葉をつなげた造語です。