紀元後
イエス・キリスト(BC4年頃~AD28年)
新約聖書(The Nwe Testament)の中に、イエス・キリスト(Jesus Christus)が誕生した際、東方の三賢人(博士)のメルキオール(青年)が黄金、バルタザール(壮年)が乳香(フランキンセンス)、カスパール(老人)が没薬(ミルラ)をそれぞれ捧げた、という部分があります。
黄金は「現世の王」を象徴、乳香と没薬は「神の薬」を意味すると言われ、この世に降り立った救世主に捧げる品としてふさわしいと考えられました。
プリニウス(AD23~79年)
古代ローマの博物学者、政治家、軍人であったガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)は、ローマ帝国の海外領土総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著しました。
地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述してあり、100人の著者によるおよそ2000巻の本を参照し、そこからピックアップした2万の重要な事項が収録されています。
全37巻のうち第12~19巻が植物、第20~27巻が薬草となっていて、古代研究の分野ではルネサンス時代まで重宝されました。
プリニウスは、夜明け前から仕事をはじめ、勉強している時間以外はすべて無駄な時間と考えており、読書をやめるのは浴槽に入っている時間だけだったと言われています。
紀元79年にイタリアのヴェスヴィオ山が大噴火(ポンペイ遺跡で有名)した際、火山現象の調査と友人らの救出へ行き、そのとき煙に巻かれて亡くなっています。
皇帝ネロ(Nero AD37~68年)
ローマ帝国の第5代皇帝であるネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)は、家庭教師で有能な政治家、哲学者、詩人であるルキウス・アンナエウス・セネカの力添えや、近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、当初は市民に愛されました。
しかし、皇帝候補の争いやネロの母親(実母)、妻、弟、側近などとの緊張関係が見られるようになると道徳観が失われ精神的に不安定となり、周りの者を次々に毒殺したり処刑していきます。
そして、64年のローマ大火(ローマ市の3分の2が焼失、ネロの自作自演という説も)の責任をキリスト教徒に押し付けて、数百人を火あぶりや猛獣のエサとして公開処刑し、大迫害をした「暴君ネロ」として知られるようになりました。
その一方、大のバラ好きで、バラの香油を体に塗らせたり部屋をバラの香りで満たしたりしたと言われています。216年に完成したカラカラの大浴場では浴場内で香油が使われており、体育室やダンスホール、談話室、図書館まで備え収容人数は1,600人と大規模でした。
このころから、皇帝だけでなく一般市民に至るまで香りを楽しむようになっていったのです。
元家庭教師であったセネカは晩年ネロに自殺を命じられますが、最後に以下のように語ったとされます。
ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない
しかし、このような自死や冤罪が度重なった結果、複数の将軍や各地の軍司令官が一斉に反旗を翻し元老院がネロの帝位を剥奪、ネロは30歳の若さで短剣で喉を突いて自刃しました。
ディオスコリデス(Dioscorides AD40頃~90年)
ペダニウス・ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides)は、ローマ皇帝ネロの治世下の古代ローマで活動していた医学者です。
医学の父とされるヒポクラテスの知っていた薬剤が130種類ほどであったのに対し、ディオスコリデスは1,000近い自然の生薬を上げており、その経験をもとに『薬物誌(De materia medica マテリア・メディカ)』を表しました。
薬物を収斂・利尿・下剤など薬理機能上から分類し、収載されている植物は600種、薬物全体で1000項目にも及んでいて、ヨーロッパでは1600年頃まで活用されました。
ガレノス(Galenos AD129頃~199年)
ガレノス(Galenos)は、古代ローマにおいてヒポクラテスに次ぐ最も著名な医学者として知られています。
ミツロウを乳化剤として、植物油と水を乳化させたコールドクリーム(使用した時に水分が蒸発し冷たく感じる)の製材法の創始者としても知られています。
ヒポクラテスを医学の神として高く評価し、ヒポクラテス医学を基礎とし解剖学を中心に学問としての医学を築き上げ、アラビア医学へ絶大な影響を与えたほか17世紀にいたるまで医学の権威として崇められました。
生きた動物を使った臨床実験によって、動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということや、心が心臓ではなく脳に宿ることも示しています。
神農本草経(しんのうほんぞうきょう 2~3世紀の漢の時代)
西洋のディオスコリデスの『薬物誌(マテリア・メディカ)』に対し、『神農本草経』は東洋の薬草学書として有名です。
神農氏の後人の作とされますが実際の撰者は不詳、365種の薬物を無毒で長期服用が可能な養命薬(上品)、毒にもなり得る養性薬(中品)、毒が強く長期服用が不可能な治病薬(下品)の三品に分類して記述しています。
のちの5世紀末に陶弘景(とうこうけい 456~536年)によって再編纂され、730種の薬石が記された『神農本草経集注(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)』という形で今日に伝えられています。
陶弘景は、博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通、仕官の招きには応じず山林に隠棲していたため「山中の宰相」と呼ばれており、本草学を研究して今日の漢方医学の骨子を築きました。
イブン・シーナ(Avicenna 980~1037年)
アラビアの哲学者・医学者であるイブン・シーナー(Ibn Sina)は、ラテン名でアウィケンナ(Avicennna)とも呼ばれていますが、当時、イスラム世界最高の知識人と呼ばれました。
10歳の時にはすでに文学作品やコーランを暗証していたとされる神童で、哲学、天文学、医学、数学、物理学、化学、地学、生物学、気象学、政治学、軍事学、イスラム神学、音楽、博物学、ユークリッド幾何学に至るまであらゆる分野の学問に精通していました。
錬金術の研究の中で、水蒸気蒸留法によるエッセンシャルオイル(精油)の生産方法を確立した人物としても知られています。(※諸説あり)
16歳には医師として患者の診察を始めており、「医学は簡単で習得するのにはさして時間はかからなかった」と述べています。
1020年頃に、ローマ・ギリシア・アラビア医学を集大成した医学書『医学典範(al Qanun fial-Tibb カノン)』を表し、17世紀ごろまで西欧医科大学の教科書に使われました。
イブン・シーナは、『治癒の書』、『指示と警告』、『救済の書』、『科学について』ほか膨大な著書を残しており、晩年は著述に専念したいと考えていたものの、イスファハーン(現イラン)の君主アラー・ウッダウラが彼を宰相に登用したことで激務(馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めるなど)となり、1037年遠征の行軍中に過労と病で倒れその生涯を終えています。
サレルノ医科大学と医師(Salerno 10世紀末)
中世ヨーロッパの医学は、薬草を中心に教会や修道院が行う僧院医学と呼ばれるものが中心でした。
しかし、中世も半ばを過ぎ都市が現れ始めると、次第に職業としての医師が必要になっていきます。
この時期、イタリアのナポリから60kmほど南にある港町サレルノは、ギリシャ、ローマ、アラビア、ユダヤという4つの文化が交差して様々な知識があふれており、「ヒポクラテスの町」と呼ばれるほど医学が盛んでした。
10世紀末、ヨーロッパ最古の医科大学であるサレルノ医科大学が開設(前身は7~9世紀の修道院)、『サレルノ養生訓(Regimen sanitatis salernitanum)』などの著作がヨーロッパ全土に広がっていきます。
1140年には、シチリア王によって「医療を行うものは、試験を受けて合格することを要する」という意味の布告がされ、医師の国家免許ともいえる制度が始めらました。
また、1241年に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が1241年に発令したサレルノの勅令(Edict of Salerno)で、医師が調剤を行うことを禁じるとともに医療の価格を固定されます。
なお、1095年の十字軍宣言から1291年のアッカ―陥落までの十字軍遠征で、東西のハーブや薬草、アラビアの医学や精油蒸留法などがヨーロッパに伝えられています。